PDM21のPDMは、Professional Dental Management の略称です。私の父、故眞坂信夫先生が、

「真っ当な診療を行い、真っ当に評価される歯科医療制度」を目指して、立ち上げた歯科専門職の集まりです。

父は、生涯理想を求め続けた歯科医師でした。受診者の方が最善の治療を受けられるようにはどうしたら良いのかを考え続けていたら、1980年に当時画期的であった、歯質と接着する接着性レジンセメント、現在のスーパーボンド®と出会い、臨床評価に携わることになりました。

スーパーボンドとの出会いより10年ほど前に、受診者のための良心的な治療をするためには保険診療は評価点数が低すぎて経営が成り立たない、と自由診療を志して都内に開業しましたが、

開業から10年を経て、スーパーボンドと出会う直前の1979年、保険診療で最低限大学で学生に教えている技術で受診者に治療を提供できないかと、保険診療中心の診療室を川崎に開いて、12年間運営しました。

結果は、やはり保険診療だけでは、自分の良心に従った治療の収入だけでは医院が経営できず、自費診療の都内の本院からの補填が続き、やはり保険診療だけでは医院の経営は難しい、という結論を得て、今の保険・自費自由診療併用のシステムに辿り着きました。

何を言いたかったのかというと、父は、常に「理想」を求めて、自身の人生を生き切った人物でした。

一歯一生・一生一歯

 

私が尊敬する歯科医師の先生が、3人います。

一人目は、スーパーボンドを開発された、故増原英一先生です。1955年から1986年まで東京医科歯科大学の医療器材研究所の教授を勤められ、1956年にドイツに留学し、ゲッチンゲン大学歯科保存治療学担当のFischer教授の下で歯質とレジンの化学的接着のアイディアを得て、1958年の帰国後、1963年にスーパーボンドの前身であるMMA-TBBレジンセメントと象牙・歯質への接着を報告した、世界の接着性レジンセメントの父とも言える方です。

増原英一先生

東京医科歯科大学医用器材研究所名誉教授 故増原英一先生

子供の頃、夕食の食卓で母に語りかける父の口から、増原先生の名前をしばしば聞いて育ちました。当時、東京医科歯科大学の臨床現場では新しい材料を試してもらえず、父に臨床試験の話がきたそうです。当時レジンは歯髄刺激性があり、生活歯には使用が禁忌とされていた時代でした。

増原先生は、その後もより良い接着性レジンセメントシステムを模索して、クリアフィルライナーボンドの接着性モノマーPhenil-Pも増原先生の門下生から生まれました。

1986年にご退官されても、2000年過ぎる頃まで名誉教授としてさらに活動を続けられていました。https://pdf.dental-plaza.com/dentalmagazine/no101/101-1/

私にとって、とても印象深い増原先生の思い出があります。1999年3月に大学院を卒業しましたが、卒業のための論文審査会に、増原先生が同席していらっしゃいました。決して大きくない同窓会室近くの講堂で行われ、論文審査に関わらない先生方も、後方に何人か座っていらっしゃいましたが、増原先生は一番前の机にお座りになり、各大学院生の新しい知見の発表を、熱心にノートをとりながら聞いていらっしゃいました。増原先生と、直接会話を交わした記憶はほとんどないのですが、ご退官されて10年以上経っても、まだ新しい知識を貪欲に学ぼうとされていた増原先生の姿勢に感銘を受けて、いまだにそのお姿が脳裏に浮かびます。

 

二人目は、陶材焼き付けポーセレン冠をアメリカの科学者Dr.Kazと開発された技工士の桑田正博先生です。桑田先生は当時父と知り合いで、私と妹が小学生の頃スキー場で偶然お会いして、家族ぐるみで遊ばせて頂いたことが何回かありました。ポーセレン焼付前装冠を開発された有名な技工士の先生であることは存じあげていました。そして、20年以上経ち、2009年頃だったでしょうか?とある新年会に父と一緒に参加して、本当に久しぶりに桑田先生にお会いしました。その頃、咬合の構築に興味があり勉強していた時期でした。そして、桑田先生が咬合について詳しく教えていらっしゃることを知ったのです。そして、クワタカレッジシニアコースを2009年に受講しました。そこで伺うお話は、咬合の歴史から始まり、Schuyler(スカイラー)先生の咬合治療、歯科医師として・医療人としての姿勢、後進へ伝えていく大切さ。全てにおいて啓発される3ヶ月間でした。

桑田正博先生

クワタカレッジ主催 ポーセレン焼付前装冠を開発された、故桑田正博先生

桑田先生がたびたび引用されていた言葉の数々、

「意思あるところに道あり」

「歯科の道を通して、人類の健康福祉に寄与する」

「踏み出せば、その一歩が道となる。迷わずゆけよ、ゆけばわかる。」

桑田先生が紡ぎ出す言葉の一つ一つが、自分の魂を奮い立たせて、「よし、やるぞ!」という気力が湧いてくるのを感じました。シニアコースの後も、時々見学に伺っては、桑田先生の情熱に触れて、歯科医としての自らの姿勢を正させて頂きました。

そして、2018年のクワタカレッジ最後のシニアコースに参加させて頂きました。桑田先生は相変わらずエネルギッシュで、2009年前後に愛弟子たちの協力を得て、ご自身で全顎的に咬合再構成された真っ白い歯は、桑田先生をますます健康的で明るく見せていました。

今も、自分自身の心の励ましのために、2009年の新年会の時に父と私と一緒に撮って頂いた写真を飾って、日々応援を頂いています。

 

最後に、身内ではありますが私の父、眞坂信夫先生を挙げさせてください。幼少の頃から、食卓で「4-METAが入るとすごいんだよ!接着力が段違いなんだ!」「金竹先生が・・・増原先生が・・・」などとの母との会話を耳にしながら育ちました。本当に、純粋により良い歯科治療を求め続けてきた父でした。私が10歳の頃、「保険診療で歯科医師が及第点を出せる歯科医院をやってみたい、大学教育で習うレベルでいいんだ」と、アメリカからユニットや歯科機材を輸入してコストを削減し、完全保険診療を前提として川崎で分院を始めました。しかし、「歯科医師として最低限これは譲れない」という線を、保険点数制度の中でやることは困難で、12年後に閉院して現在の眞坂歯科医院の形態になっています。

眞坂信夫

眞坂歯科医院 前理事長 故眞坂信夫先生

 

スーパーボンドの接着力を生かした接着ブリッジ、破折歯根治療。破折歯根治療は、スーパーボンドが市場に出た1982年に最初の症例を行なっています。そして、スーパーボンドの生体親和性に気づいてそれを証明するための、アマルガムボンド法の提案、金属支台による歯根破折を防ぐ支台材料開発のための研究会の提案が、i-TFCシステムの開発へとつながりました。

定期メインテナンスを取り入れた歯科医院体制(2000年~)、院内LANシステムの構築とユニット前に設置したディスプレイと画像データベースを用いた受診者への説明(2000年~)など、新しいアイディアを次々と現実化していった父の情熱は、端で見ていても眩しいものでした。

そして、100歳を超えて生きた私の祖母の口腔内健康への反省から生まれた、“終末期を視野に入れた前期高齢者歯科医療システムの構築” の提言。

常に、理想を求め、そして、その理想と理念を机上の概念で終わらせるのではなく、常に現実の経営との両立を考え続けて現実化し、スタッフの幸せも同時に考え続けていました。何かあるたびに、スタッフに手当をあげられないか、が口癖でした。

父の残した心は、とてつもなく大きく、一生かけても追いつけないように思えます。

ただ、父ができなかったことで私が補足できる事もあるだろうとの思いから、父の情熱を、精一杯後進の方達に繋いで行きたいと心を奮い立たせる今日です。

 

なぜ、今回、このような話題でブログを書かせて頂いたかというと、

最近、世の中を見回していて、周りを見回していて、父が生きてきた時代の増原英一先生桑田正博先生のような心を打つ素晴らしい先生方のように、「理想」を求めて実現することを「良し」とする姿勢を尊ぶ空気が感じられないからです。

 

桑田先生の2017年の言葉ですが、「今の日本の体たらくを見ているとそう思いますよ。明日の生活のことだけを考えるのではなく、後世に何か残すことを考えないといけない。本気で人類の健康福祉を考えることができる歯科人でありたい。これは世界中どこでも通用します。」

White Crossの桑田正博先生のインタビュー記事より引用 (White Crossは無料会員登録できますので、ぜひ桑田先生のインタビューをご一読ください。インタビュー動画で先生の肉声を拝聴できます。)

https://www.whitecross.co.jp/articles/view/360/1

 

中には、現在でも情熱を持って仕事に取り組み、次々と新しい発見を発表してくださる素晴らしい先生もいらっしゃいますが、もっと大きな視点で、「歯科医業がどうあるべきか?」という視点で、私たちを奮い立たせてくださる傑物が不在に感じるのは、私の勉強不足かもしれません。

そして自分自身も、予約が入らない中に舞い込んでくる急患の対応や、医院の運営に関する雑事やトラブル、経営の現実に直面してやるべき事が多すぎて理想などどこへやら、不満とストレスで心の中が一杯になる瞬間もしばしばです。

そんな中、HP上の桑田先生のインタビュー動画を聞いて読み、父の残した文献や記憶や動画から元気をもらい、増原先生が真摯にノートを取られていた姿を想い、スーパーボンド開発初期の増原先生のドイツ語文献をたどたどしくPCで翻訳にかけて読みながら、

戦後間もない頃から、日本の歯科医療の向上に、人生を賭けて情熱を持って取り組んでいらした、先人の方々の「理想」に対する情熱に感心し、その情熱を分けて頂きたい、自分もその情熱を持って歯科医療に取り組みたい、と切に願います。

そして、そんな父が主催して、ともに学びを続けていらしたPDM21東京の先生方が、10年、20年の間、真摯に歯科医療に取り組み続け、経験を積まれて、自らが施した治療の20年後、30年後を経験していらっしゃる今、父の提案し続けていた資料の蓄積を持ってシェアして頂き、さらに良い治療を受診者に提供したいと研鑽に取り組んでいらっしゃる姿に、日々学ばせて頂いていることに、本当に感謝を感じています。

忙しい臨床と毎日の生活の中で、「理想」を忘れずに求め続けることは、容易ではありませんが、尊敬する方々の情熱を無駄にしないために、後進の方々に繋いでいくために、自分にできる精一杯で、毎日に向き合いたいと思うのです。

眞坂歯科医院

眞坂 こづえ